関ケ原 中巻

作者

司馬 遼太郎

出版社

新潮文庫

読後メモ

中巻は、石田三成方の準備の様子が描かれています。

会津の上杉討伐のために家康が伏見を離れると、西軍が挙兵準備を始めます。

石田三成は、軍議に自分で指令は出さずに、宇喜多秀家を通じて指令を出したのだそうです。いや、ずるっこい。自分では前面に立たずに陰でこそこそ。ほんと僕に良く似てる。周りから嫌われるはずだわ。

 

そんな三成も、僕ほど性格が悪いわけではなかったようです。家康について上杉討伐に出陣した武将の妻子は大阪に残されていて、当初三成もその妻子を人質にしようとしたようですが、細川忠興の夫人ガラシャが爆死すると、妻子を人質とすることはやめたようです。僕は性格がひねくれているので、誰が死のうが人質政策は続けただろうと思います。三成も少々甘いところがあったようですね。ひねくれてなかったというべきかもしれません。三成が正直者でなく、僕みたいにもう少しひねくれものだったら、西軍が勝って、日本の歴史も変わっていたかもしれません。

 

さて、細川ガラシャの話をしようと思います。名前は良く聞くと思いますが、彼女は明智光秀の娘であるという話はご存じの方はあまり多くないのではないでしょうか。

とても美人だったそうで、光秀という謀反人の娘であるにも関わらず、細川忠興は離縁したりしなかったそうです。

 

忠興が上杉討伐に出陣する際、三成がガラシャを人質にとろうとしたら、ガラシャを殺せと家臣に言いつけて出陣していったのだそうです。僕だったらそんな命令はせずに、必ず生きて欲しいと願うと思いますが、忠興は独占欲の強い人間だったのでしょうね。今でいうと、人の物になってしまうくらいなら、フラれた相手を殺して自分も死のうとするタイプだったのでしょう。

 

おかげでガラシャは、三成に人質になれと言われたとき、家臣の手にかかり、あげくのはてに遺体も爆薬で吹き飛ばされたのだとか。これで、忠興としてはガラシャを誰の手にも渡さずに済んだということになるのでしょう。

 


 

中巻は、大阪で三成が挙兵した知らせを聞き、家康が取って返すまでが描かれています。家康としては、上杉討伐に従軍した諸将が自分の味方になって戦うのか不安でした。従軍した諸将には、秀吉子飼いの武将も多くいたからです。

家康は現在の栃木県の小山で、上杉討伐は中断し、三成討伐に行く旨の軍議を開いたそうです。家康としてはここで、三成討つべしの結論となって欲しかったわけですが、そのために事前工作した相手が福島正則でした。

ご存じの通り福島正則は秀吉の子飼い。これが率先して家康の味方となり、豊臣秀頼をいただく三成を討つということになったため、多くの諸将はこれに従うこととなったそうです。

福島正則にこのような行動をとるよう説得したのが、黒田長政(かの黒田官兵衛の嫡男)だったそうです。

 

このように、関ヶ原の時代に、どの武将がどのように考え、行動したかを見ていくと、歴史ってとても面白いものになってきますね。

海を破る者

作者

今村 翔吾

出版社

文藝春秋

読後メモ

今村先生の最新作です。

先生のサイン会があるというのを知って、いただいて参りました。

この本は宝物となりました。

 

さて、物語ですが、元寇が題材となっています。

ご存じの通り、元寇は2回あり、1274年の「文永の役」と1281年の「弘安の役」です。

「文永」と「弘安」はその時の元号です。その間わずか7年なので、「文永」と「弘安」は連続しているのかと思っていましたが、この間に「建治」という元号の時代があったようです。しかも「建治」はわずか3年だけ。現代のように天皇が代わると元号が変わるというわけでもなかったようなので、3年だけの元号というのもあったのでしょうね。

 

おっと、元号ではなく元寇の話をしていたのでした。

ご存じの通り元寇はモンゴル(フビライを皇帝とする元朝)が日本に攻めてきた事件です。2回とも台風が元軍を追い払ったとされており、日本は神風に守られているという考え方もあるようですが、これはどうやら戦時中、軍が都合よく解釈したもののようです。文永の役が終わったのは11月のことで、異常気象が当たり前になっている現代ならいざしらず、当時は11月に台風なんてなかっただろうと言われています。

文永の役のときに元軍が撤退したのは、この作品にも登場する少弐資能が元軍の副将を射抜いたことも一因のようで、「神風」は元軍撤退の際に影響があったのみだそうです。

 

そもそも元軍が攻めてきたのは、鎌倉幕府が元からの使者を全く無視していたからだそうで、文永の役後の使者にいたっては処刑してしまったそうです。

これにより、弘安の役は大軍が押し寄せることになり、対馬壱岐などは暴虐の限りを尽くされたそうです。

地図を見ると良く分かるのですが、朝鮮半島から日本に攻め入るには対馬壱岐、そしてこの作品における主戦場である志賀島と渡ってくるのが合理的です。

 

このような文永の役弘安の役の様子が今でも分かるのは、作品の中にも出てくる「竹崎季長」の功績が大きいのだそうです。

作品の中でも竹崎は、主人公で良識派河野通有と違い、目立ちたがりで、恩賞目当てで戦をしてるような人物と描かれています。

この竹崎、自分の活躍を記録させるために絵巻物を作らせてているのです。それが「蒙古襲来合戦絵巻」というもので、これ、驚いたことに国立国会図書館のデジタルコレクションと言うサービスで見ることができちゃいます。

この絵巻を見ると、竹崎がどんなに目立ちたがりだったか良く分かります。合戦の場面で活躍する竹崎が出てくるのもさることながら、自分の手柄を鎌倉幕府の役人に訴えてる場面なんてのもあって、なんか身近に感じてしまいます。

 

少弐資能河野通有竹崎季長などの実在の人物とは別に登場するのが、今村先生の創作と思われる奴隷として売られてきて河野家で働く、高麗人の「繁」とキーウ出身の「令那」です。

特に令那は白人で青い目をしていても日本に溶け込んで頑張ります。河野の「日ノ本と何であろう」という言葉に考えさせられます。

当時の人々が本当にこのような思想を持ちえたのかどうかは分かりませんが、令那をキーウ出身としたのは、今村先生が現代でも侵略戦争は続いているのだということを意識したものだと思います。

何百年経っても人間の性というものは全く変わらず、人種、国境の壁は超えられず、「日ノ本とはなんであろう」という疑問は続いているのだということに気づかされます。

日ノ本とはなんだ、ロシアとは、ウクライナとは、イスラエルとは、パレスチナとはと考えないで済む世界が実現することを信じたいと思います。

関ヶ原 上巻

作者

司馬 遼太郎

出版社

新潮文庫

読後メモ

僕は学生時代世界史を選択していて、日本史を全く知らないので、まずは日本の天下分け目、関ヶ原の戦いの知識を仕入れようと思います。

 

関ヶ原の戦いは東軍徳川家康と西軍石田三成の対立であったことは日本史を知らない僕でも知っています。この「関ヶ原 上巻」では徳川家康石田三成の対立が深まっていく様子が描かれれています。ま、昨年の大河ドラマで家康は何となく弱々しく優しい人物として描かれていますが、実際は豊臣秀吉の死後、自分の天下とするために好き勝手し放題だったようですね。生真面目な石田三成はそれに我慢ができなかったようでうす。負け組に似てると思うのも気が引けますが、なんとなく僕自身は生真面目なので石田三成に似ているような気がしています。

 

さて、石田三成が負けたのは、徳川家康が強かったというだけではなく、石田三成のような豊臣秀吉子飼いの武将たちの中にも対立があって「分断」があったことが起因しているように思われます。石田三成のような文官派と加藤清正福島正則のような武闘派が対立していたのです。このような内部分裂が無ければ徳川幕府の江戸時代は無く、日本の首都も大阪のままだったのは無いでしょうか。

 

さて文官派は石田三成だけではありません。五奉行と呼ばれる行政官がいて、これが三成派だったようです。五奉行は以下の5人です。

これには面白い語呂合わせがあって、「夏の前、浅野は医師になりました」と覚えるのだそうです。というわけで、上記はこの語呂合わせに順番に記載しています。

 

一方、豊臣政権のもとには、秀吉子飼いではない、言ってみれば外様の大名もたくさんいました。これらが秀吉の座を虎視眈々と狙っているわけですから、秀吉も苦心の末に五大老という仕組みを考えたようです。この「五奉行五大老」の合議により政治を行うことで、豊臣政権を維持しようと考えたわけです。その五大老とは以下の5人です。

なお、当初上杉景勝ではなく、小早川隆景がメンバーだったそうですが、その死去に伴い上杉景勝に代わったのだそうです。これまた面白い語呂合わせがあって、「ウキウキ上杉、もう、家の前」と覚えるのだそうです。

 

なお、以上の語呂合わせは以下のサイトから引用させていただきました。

http://tps://nihonsi-jiten.com/gotairou-gobugyou-how-to-remember/

 

五大老の合議制なら家康が好き勝手出来るわけないじゃないかと思われますが、家康が好き勝手できるようになったのには一つの要因があります。五大老のうち家康と並んで力を持っていた前田利家が亡くなってしまったのです。そして、家康はこともあろうに前田利家の奥さんお松様を江戸に人質として送ってしまったのです。

 

という家康の横暴で上巻は終わっています。中巻をおたのしみに。

戦国武将伝 西日本編

作者

今村 翔吾

出版社

PHP研究所

読後メモ

続いて今村先生の戦国武将伝「西日本編」です。東日本編、西日本編と続けて読んでくると、戦国武将がどれほど沢山いたのか実感できます。

しかしながら、関東人である僕にとっては、東日本編では聞いたことがある武将たちが登場していますが、西日本編ではなじみのない武将も登場します。

また、豊臣秀吉が登場する武将伝が多いということにも気づきます。当たり前のことですが、関ヶ原の西軍は豊臣恩顧の武将たちだということにあらためて気づかされます。

さて、「西日本編」には以下の武将たちの短編が収録されています。

  • 毛利 元就(もうり もとなり)     【広島県
  • 尼子 経久(あまこ つねひさ)     【島根県
  • 大内 義興(おおうち よしおき)    【山口県
  • 松永 秀久(まつなが ひでひさ)    【奈良県
  • 龍造寺 家兼(りゅうぞうじ いえかね) 【佐賀県
  • 宇喜多 直家(うきた なおいえ)    【岡山県
  • 石田 三成(いしだ みつなり)     【滋賀県
  • 戸次 道雪(べっき どうせつ)     【大分県
  • 北畠 具教(きたばたけ とものり)   【三重県
  • 黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)    【兵庫県
  • 亀井 玆矩(かめい これのり)     【鳥取県
  • 伊東 祐兵(いとう すけたか)     【宮崎県】
  • 有馬 晴信(ありま はるのぶ)     【長崎県
  • 加藤 清正(かとう きよまさ)     【熊本県
  • 雑賀 孫一(さいか まごいち)     【和歌山県
  • 足利 義昭(あしかが よしあき)    【京都府
  • 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)    【大阪府
  • 十河 存保(そごう まさやす)     【香川県
  • 長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)【高知県
  • 加藤 嘉明(かとう よしあき)     【愛媛県
  • 島津 義弘(しまづ よしひろ)     【鹿児島県】
  • 謝名 利山(じゃな りざん)      【沖縄県
  • 蜂須賀 家政(はちすか いえまさ)   【徳島県
  • 立花 宗茂(たちばな むねしげ)    【福岡県】

戦国武将は名前の読み方が難しい方が多いので、自分のメモにふりがなも記載しました。

記憶に残った物語を少々メモしておきます。

石田三成

ご存じ関ヶ原の西軍を組織した武将です。豊臣秀吉が休憩に寄った寺でお茶を出すときに1杯目、2杯目、3杯目とお茶の温度を変えて出したところ、気が利くと秀吉に気に入られ、秀吉の小姓になったのだとか。

まったく古き良き時代の話で、いまやお客様がいらしても、女性に「お茶淹れて」なんて頼んだらセクハラだと訴えられてしまうので、応接には給茶機があってボタン一つでどなた様にも同じお茶が出てくるようになっております。

秀吉が見たら驚くだろうなぁ。

 

戸次道雪

このお方、雨の中刀を振り上げたら雷が落ちて足が不自由になったのだそう。今の科学的知識からすると、これ単なる間抜け話ですよね。なのに、この時代では「雷神」と恐れられたのだとか。

これまた古き良き時代のお話です。

 

亀井玆矩

この方は尼子家の家臣であったものの、豊臣秀吉に従って転戦していたので、山中鹿之助のように毛利に敗れて殺されることもなかったそうです。

ただし、出雲の国をもらうことはできなかったので、秀吉がどこが欲しい?と聞いた時の答えが振るっていて、「琉球の国」が欲しいと答えたそうです。

現代に置き換えてみると、「海外勤務がしたい」ということだと思います。当時としては革新的な考えであったなではなかろうかと推察します。

僕も昔は海外で活躍しようと思った時期もあったけど、会社がすっかりドメスティックになってしまったし、この歳になると海外勤務なんて大変なだけだと思うのですが、こんな物語を聞くと、いつまでも大きな夢を持ち続けたいものだとも改めて思うのでありました。

 

伊東祐兵

伊東家は日向の国きっての名家なのだそうですが、島津にやられて落ちぶれたのだそうです。そこで、豊臣秀吉を頼ったのですが、秀吉も簡単にはあってくれず、いわゆる「夜討ち朝駆け」をやったのだとか。

秀吉も織田信長に対して同じ手を使ったことを思い出だし、祐兵に目をかけたのだとか。

秀吉が偉くなっても昔の自分のことを忘れていなかったというお話です。

 

加藤清正

清正も昔の自分を忘れていなかったというお話です。

清正の小姓たちのうち一人が茶器を割ってしまったのだけれども、お互いかばいあって誰が割ったのか清正に言わなかった。そういえば自分もそうだったと清正が昔の小姓仲間と話をしたというのです。

そういえば、僕も学生時代の友達とは立場は変われども、今も気の置けない間柄です。これは、今も昔も変わらないことなのでしょう。

 

豊臣秀吉

秀吉の好物は牛蒡だったのですね。しかも丸かじり。

僕も牛蒡サラダか、きんぴらだったら好きなんですけどね。

 

長宗我部元親

秀吉への献上品を何にするかで家中が分裂しているところ、土佐の土産ということでなんとクジラを一頭持っていくことにして家中をまとめたのだそうです。

これには、さすがの秀吉もびっくりしたことでしょう。

戦国武将伝 東日本編

作者

今村 翔吾

出版社

PHP研究所

読後メモ

手始めに戦国時代にはどこにどんな武将がいたのか学んでいこうということで、今村先生の本を手に取りました。先生の仰るところの「連作短編」で、「東日本編」には以下の武将の短編が収録されています。

  • 長野 業正(ながの なりまさ)   【長野県】
  • 徳川 家康(とくがわ いえやす)  【東京都】
  • 北条 氏政(ほうじょう うじまさ) 【神奈川県】
  • 里見 義弘(さとみ よしひろ)   【千葉県】
  • 織田 信長(おだ のぶなが)    【愛知県】
  • 矢島 満安(やしま みつやす)   【秋田県
  • 今川 義元(いまがわ よしもと)  【静岡県
  • 最上 義光(もがみ よしあき)   【山形県
  • 太田 資正(おおた すけまさ)   【埼玉県】
  • 武田 信玄(たけだ しんげん)   【山梨県
  • 富田 長繁(とんだ ながしげ)   【福井県
  • 上杉 謙信(うえすぎ けんしん)  【新潟県
  • 津軽 為信(つがる ためのぶ)   【青森県
  • 佐々 成正(さっさ なりまさ)   【富山県
  • 金上 盛備(かながみ もりはる)  【福島県
  • 竹中 半兵衛(たけなか はんべえ) 【岐阜県
  • 宇都宮 国綱(うつのみや くにつな)【栃木県】
  • 佐竹 義重(さたけ よししげ)   【茨城県
  • 蠣崎 慶広(かきざき よしひろ)  【北海道】
  • 伊達 政宗(だて まさむね)    【宮城県
  • 北 信愛(きた のぶちか)     【岩手県
  • 前田 利常(まえだ としつね)   【石川県】
  • 真田 信幸(さなだ のぶゆき)   【長野県】

もちろんこの本には西日本編もありますので、戦国時代には多くの戦国武将が文字通り群雄割拠していたことが偲ばれます。もちろん有名な武将もいますが、全く知らなかった武将も。しかも名前の読み方が難しい、ということで、自分のメモにふりがなも記載しました。

記憶に残った物語を少々メモしておきます。

徳川家康

家康が今川の人質だったという話は有名な話だが、今川に行く前に千貫で織田に売り飛ばされていたということは初めて知りました。その時信長とも会ったのだとか。大河ドラマを初めから見ていなかったことを後悔しました。しかし、家康は売り飛ばされたことに怒っていたのではなく、千貫という自分の値段に怒っていたのだとか。やはり偉くなる人は考え方が違うものだと思った次第です。

里見 義弘

このころ北条氏は関東一円を支配しようとして、房総半島にも出兵していたのですね。その戦いの中での恋物語です。戦国の世にも純愛はあったのだろうなとロマンに浸ります。

太田 資正

江戸城を作ったという太田道灌の子孫だそうですが、松山城と岩付城を支配して、これまた北条氏の侵略を防いでいたそうです。松山城とは愛媛の松山城ではありません。では埼玉県の東松山かとおもいきや、今の吉見町なのだとか。岩付は分かりますよね。今の岩槻です。資正はその松山城と岩付城の間を普段から犬を連れて行き来していたのだとか。そして、戦時にはその犬を伝令に。犬は賢いですからね。よくこういう物語は後世に脚色されたものだと言われますが、うちの犬を見ているとこの話、あながち作り話でもないような気がします。

上杉 謙信

武田 信玄のライバルと称される上杉 謙信。いまでこそ良きライバルは良き友と言いますが、戦国時代でなかったらこの二人はとても仲が良かったのだろうなと思います。

竹中 半兵衛

竹中 半兵衛は幼いころから兵法書を読み漁って軍師になったのだとか。しかも軍師になったのは恩賞目当てではなく、完璧な戦がしたかったからだそう。凡人の私は「完璧」もいいけどやっぱり「恩賞」は欲しいよなと思ってしまいます。ま、これが偉人と凡人の差なのでしょう。

伊達 政宗

奥州の覇者、独眼竜と言うくらいだから伊達 政宗にはとても怖いイメージを持っていたのですが、天下人豊臣 秀吉相手にはそうでもなかったことがうかがえます。秀吉に気に入られるためにわざとボケていたらしい。まるで今の私。周りに気を使ってボケまくります。やっぱりいるじゃない凡人っぽい戦国武将。僭越ながら伊達 政宗公、おおいに身近に感じました。

教養としての歴史小説

作者

今村 翔吾

出版社

ダイヤモンド社

読後メモ

私は学生の頃世界史を選択していたので、日本人でありながら日本の歴史に関する知識は極めて少ないを恥ずかしく思っていました。加えて最近年を取ってきたせいか、日本の歴史特に戦国時代前後に興味を持つようになってきました。そこで、日本の歴史を手軽に勉強する方法はないかと考えていたところ、今村先生の本に出会いました。早速購入し読み始めたのですが、「はじめに」を読んだだけで先生のお考えに深く共感を覚えました。この本でも太字になっている部分私が共感を覚えた部分を引用させていただきます。

>教養を高める最も有効な手段は、歴史に学ぶこと

>その導入として最適なのが「歴史小説

>自分にあった作家の作品を読むことが、歴史から供用を身につける最良の手段

この本には、今村先生お勧めの歴史小説・時代小説が沢山紹介されています。これから先生ご紹介の本で少しずつ日本の歴史に関する教養を深めていこうと考えています。(先生は小学生の頃から「真田太平記」を皮切りにありとあらゆる歴史小説・時代小説を読破されているとのこと。)

なお、先生によると「歴史小説」と「時代小説」は少々違うのだとか。最近映画も公開された「鬼平犯科帳」などは「時代小説」に分類されるようです。私としては日本の歴史の知識も身につける、という意味からこのブログでは「歴史小説」を読んで、皆さんにご紹介しようと思っています。